妄爺が裏日男に向かい、どこから出しているのか知れない低い声で言った。
「兄さん… どんな話しにも手の打ち所ってのはあるんだぞ。俺が俺がばっかりじゃ駄目だ… コイツはまだまだ若いけど、これから確実に伸びる。今回兄さんが出来ない我慢をして、ここで退いとけば、コイツは先々兄さんの力になるぞ。どうだ… この辺で手ぇ打つ訳にはいかないかい。なんなら俺が頭を下げる」
衝撃…
ジジィ!
余計な事言ってんじゃねぇ!!
妄爺の肩を掴んで立たせようとしながら言った。
「おい!」
余計な事言ってんじゃねぇと続ける言葉を吐く前に後ろから声が掛かった。
「分かりました… 今回はこっちが泣いときますわ」
え?
ええ??
振り返って裏日男の顔を見た。
ブルドックヅラの裏日男が、自分が二枚目と勘違いしているのか、少し気取った顔をして僕を見ていた。
ハ?
ナニコレ?
ハナシツイチャッタ?
放心…
意味がわからず、僕はその場にただ立ち尽くした。
妄爺が座ったまま僕に喋り掛ける。
「若。良かったな。兄さんこらえてくれるってよ。これからも仲良く付き合って行くんだぞ」
なんだこれ…
妄爺が更に言う。
「ほら、早く金の渡す段取りして預かって貰ってるアンチャン連れて帰ろう」
その妄爺の声が遠くで聞こえたような気がした。
それからの話しは早かった。
放心気味に椅子に座った僕に裏日男が言った。
「次はないからな。しっかり下の奴管理しろよ」
ムカッと来た。
何を偉そうに…
全てをぶち壊して帰りたかった。
しかし、僕の口をついて出た言葉は全くの逆だった。
「分かった…」
悔しかった。
こんなヨゴレヤクザに負けたのかと思うと次の言葉は出なかった。
僕は嫌な人間だったのだろう。
隣に座る妄爺の存在すら欝陶しかった。
この時の僕には、余計な事しやがってとしか思えなかった。
ならば話しを壊せば良いのだがそれもしなかった。
話しは淡々と進んでいった。
裏日男が最後に席を立ちながら言った。
「小僧は結構絞めちゃってるけどガタつかせんなよ」
「分かった…」
そして四人でレジへと向かう。
伝票は皆を抑えて妄爺が持っていた。
既にどうでも良かった。
レジの前に何故か四人で列んでいた。
妄爺がズボンの後ろポケットから財布を抜いた。
その時、ゴトンと地面に何かが落ちた。
皆の視線が落ちた物に集中する。
それは、鈍い光りを放つ無骨な抜き身のナタであった。
わざと落とした事は明らかである。
裏日男にも当然わざとだと分かったはずである。
急ぐでも無く妄爺はナタを拾って懐にしまった。
裏日男と目が合った。
どちらからとも無く僕達は苦笑いになった。
ファミレスの近くの公園で裏日男達を待つ事になった。
泥小僧を連れて来ると言う。
その間に僕は銀行に寄ってお金を下ろして来る。
50万円…
お金の価値などはどうでも良かった。
負けて払う事だけが悔しかった。
銀行に寄り、待ち合わせた公園の横に車を停める。
妄爺も、僕も、ここまで口をきいていない。
全ての事にお礼を言わなければいけない事は分かっていた。
しかしどうしても言葉が出なかった。
間違いなく助けられた事は理解していた。
分かっていてなお言葉が出なかった。
僕は鼻持ちならないガキであった。
この時、僕がきちんと妄爺にお礼を言っていれば妄爺のその後は少し違った形になったかもしれない。
なぜ僕は素直になれなかったのだろうか…
甘えだろうか…
過ぎ去った時間を振り返ると後悔ばかりが今でも過ぎる…
それは後悔を越えた後悔になってしまった。
公園の横に車を停めるとすぐに妄爺が口を開いた。
「悪かったな。口出さないって約束したのに」
「いや…」
良いんだ…
ありがとう…
後の言葉がどうしても出ない。
「なんかアイツ見てたら刺し違えるのが馬鹿らしくなったんだよ。あとの長い懲役も考えちまったしな」
嘘をつくな…
「この歳で懲役はきついからなぁ」
嘘をつくなっての…
ますますミジメになっていく自分がいた。
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